昭和40年7月15日 朝の御理解



 今日、朝から、この地方の、(ほりどおり?)の、散布があるらしい。その為に、朝の5時から表の、戸を全部閉めなければならんという・・。あー、ガラス越しに、ああした、涼しそうな風が吹いてるけれど、やはりそれを閉め切ってその風を、入れられない。ですから中は、蒸し風呂のようにいわば暑い。ですから、私ども、信心させていただく者、そういうような場合、さ、今日は本気で一修行させてもらおうぞと、一汗流させていただくぞと、いう気にならせていただかなければ、とてもじゅつのうて堪えんことである。ね、涼を求めて外へでたところで、それは私は、ほんとなことじゃない・・・。夕べあたりは特に、蚊が、多いかったんですけれども、ま、こういう、一切に、(ほりどおり?)の消毒があることによって、そのわずらわしい、蚊も蝿も、いなく、一時はなるだろうと。ね、そこにほんとの、いらいらせんですんだり、わずらわしいと思わんですんだり、ね、蝿がいっぱい、蝿がおれば、わずらわしい。ね、蚊が、そこをプンプンいうて来ると、いらいらする。そういうようなものが、なくなるために、やはり、そういう修行しなければならない。今日私、そんな気持で御祈念させていただいたんですよ、そしたら、御心眼に★今度の、お広前に出来るこれがお風呂だろうか、と私思ったんですけどそうでもなさそうなんですね。もう、紫のこいーい小さいあの、タオ、タイルでいっぱい張り詰めてあるんですよ。この、あの、広ーく、中に、こう、水、薄水色の、小さいタオルで(  ?  )した、もうお風呂があるんですね、御心眼に頂くんです。それで私今、今朝のことを、皆さんに聞いてもらって、お風呂と言えば、まあ言うなら極楽。そりゃ結構なことなんです。ね、いくら極楽、極楽と言うような中にあってもです、心に不安があったり、わずらわしかったり、イライラしておったりして、お風呂に入ったっちゃ、そりゃそんな心にゃなりませんものね。明日のことを心配しながら、温泉にいったって、楽しいことないでしょう。まあ少し極端な話なんですけれども、ね、例えばお風呂に入らせていただくでもです、極楽を感じさせていただくでもです、神様に許されて、今日は温泉に来てます。ね、自分が楽しようと思うてからの、楽ではない、神様に今日は許されての、例えば温泉行こう、行きだと、いうことだったら、安心して、ほんとの極楽を味わうことができるでしょう。ね、(    ?     )。自分の、眠かりゃ、寝ると。自由わがままの中に、極楽はありゃしません。もう絶対です。ね、そこで、厳しいようですけれど、信心させていただく者は、もちろん修行精神が旺盛でなからなきゃならんと同時にです、楽はせんぞ、という気になりなさいと。ね、そして、神様がさせて下さる楽と。神様から許されてからの楽。ね、神様はね、私ども楽はせん、と言うても、もう、させずにはおかん、と言う働きがちゃんとある。例えば、ね、高良山のように、高い石段をこう、登ってまいりますとです、上には必ず広場があるようなもの。ずーっとその石段が続いておるということは無い。あるいはもっと長ければ中間で、ちょっと一服、休ませてもらうところが必ず作ってある。ね。

 同時に、私は、こんな御心眼を頂いた。★いわゆる、軽装、っていうですかね。あるご婦人の方が、やはり、今の、涼しかそうな、洋服を着てですね、ところがその、持っておるところの、ハンドバックというのがですね、冬使う、立派なものなんです。なんか、革の、牛革か何かのでしょうか。黒っぽい、牛革の、そりゃもう見事な、ハンドバックですけれども、それをこう提げておられる。男の私が見ても、まあどうした、不似合いなものじゃろうかと、品物がよかだけじゃいかんな、と思いよるとこだった、御心眼に。ね、例えば、涼しかそうに、な、軽装にですよ、ね、例えば、牛皮の、見事な、ハンドバックを例えば持っておると致しましてもです、ハンドバックが素晴らしか、というだけでは、いけないでしょうが。やはり夏持つならば、なんて言うですかね、かえってビニールだけの方がかえってよか。また上等であるならば今の、高島さんが(あぎなって?)おられるような、あんな、ビーズで作った、一つ一万円もする、といったようなものをですね、それは、パナマで作ったとかというその、その言わば、服装にです、その時好にです、つりおうたものを持たなければいけないということ。でなかったら、かえって、持ったことがおかしいということ。そうでしょうもん。いっぺんそういう図を想像してみてごらん。

 どんなに素晴らしい、信心だと言うても、そりゃ信心そのものは、どんなに素晴らしいハンドバックであっても、その時その時のです、ね、臨機応変に自分の心の持ち方というものがです、ぴったり、自分のそれに、釣り合うたもの。おうたものでなからなければ、おかしい、ということ。ね、もちろん、それはどういうことかというと、人が見ても自分も、自分の、例えば服装に対するところのその、持ち物一つでもです、釣り合うたものを持つということが、ぴったりとした感じがでてくる様にです。どんな場合でも、ね、清々しいとか有難いとか、勿体ないとか、相済まんとか、そういうような、信心、神様にかようような心、というものが、もちろん、焦点になからなければならんことはもちろんのこと。ね、古い考えをいつまでもこの中に持っておる。自分のこう思っておる思いをいつまでも同じ思いをここに持っておる。ね、それが、有難いなら、それでいいのですよ。それでぴったり合ってるわけなんですから。ね、それが、有難くない、イライラする、寂しい、腹が立つ。というならば、それは、その心は、持ち替えなければおかしいときなんだ。ね。

 昨日私は、初めて、えー、外地におる時はいつもでいたけど、こちらに帰ってから、親先生に手紙を書いた。善導寺の親先生。昨日から、体が悪いんです。きのう、電話が掛かってきてから、お父さんにということであった。私が(  ?  )から、具合が悪くて休んでおります、ならお母さん、お母さんな、大石さんが、福間の叔父が、危篤状態で、前の晩から行っておりましたから、そんなわけで、居りませんと。はーやっぱこれは、何かお父さんかお母さんでなからな、( ? )的なお話だな、というふうに思ったらしい。けれどもそれなら仕方が無いから、というて、まあいろいろ、お電話で、お話を頂いた。それはどういうことかというと、甘木関係、それから、東町の先生あたりが、あの、今日甘木が、久留米にみえて、椛目のほうへみえるかもしれん。それで、あの、教会らしい雰囲気というものをお広前から取り除いとけ。第一、御結界を撤去しておけと。取り除いておけと。そしてその、御結界を撤去するということの理由もです、例えば教祖の神様でも、その当時の、お上から、御結界を、その、拝むことはならん、と言われたらご神前のものを全部取り下げられて、拝む場をなくしてしまわれたと。ね、途中で、そうあんたのように、(  ? )通りしなくても、まあ、こっそと拝んだっちゃよかじゃないですかと、その村の、言わば村長さんのような方が言うてみえたんですけども、お上から許しのあるまでは拝みません、と言うて拝まれなかった時代があった。その例をひいて、その、椛目も、御結界を撤去せろ、とこう言うわけなんである。けれども、教祖の神様の御時代と、今の御時代は時代が違う。ね、現在は言わば信教の自由である。私が教師の資格を持って無くても、ここは教会の看板上げなくても。ね、誰でも、やはり、こうして、もし人が助かるならば、そこに人が助かって、教会の様なふうになっていっても、誰も文句言うことはできない、時代なのである。しかも撤去がです、そういうような意味合いにおいての撤去なら、私喜んでさせても頂こうけれども、私はそのことを、親先生にいっぺん、もう十年も前のことでしょうか。朝の御祈念に私が、遅れたときに、もう神様が私は(使わん?)と思し召しておると私はこう感じた。だから私は親教会にすぐ、もう、あのこげなお取次ぎの真似事のような事はやめますから、って言うて、お届けに行ったことがあった。私どもの場合なんかはもう、ほんとに神様が仰ることならば、それこそいつでもどんなことでも、教祖の神様じゃなくても、私は致します。一日考えてから、私が行けるなら、行きたかったんですけれども、これは、親先生のお言葉に、背いておるわけですから、その、背いておることを、一つ、お手紙にして、私の気持を聞いていただこうと思って、私の言うた通りを、先生ちょいと書いてくれんの、っち言うて、私の言葉、言うた通りのことを、書いて久保山先生が手紙にしてくださった。それを、豊美がお日参りする時に、持って行った。ね、その内容に私こんなふうに書いてもらった。日夜御神勤有難うございます、と。今日はお手紙を頂きました。そのことについてから、私もいろいろ、考えさせていただくのでございますけれども、ね、これはもう、先生、私のギリギリの、気持でございます、と。例えば、甘木からみえましょうが。東町からみえましょうが、ね、ほんとに椛目のそのままの姿を、みてもいただきたい、聞いてもいただきたい、と。(演説?)までして。ね、それを、見てもらうという気持は毛頭無かった。第一、そもそもが、椛目のここ十五年間の、歩みというものを、思うたときです、そのことにだって、ね、その経過のこと、神ながらな、ここにこうしておかげを頂いておることをです、神ながらに見てもらうこと。親先生の思いには、背くかも、わからんけれども、ね、ここには、甘木関係の先生方も、甘木関係の、御信者さん方も、お参りになるのですよと。ですから椛目の状態皆知っておられますと。みて、家にみえられた時だけ、御結界だけが無かったと、ね、それで済めばいいけれども、私は、結局、頭かくして尻隠さずのことになりゃ、しないでしょうか。かえって相手に、悪い感じを与えるようなこと無かろうかという意味のことを、書いて持たせました。親先生は、もう、御結界を撤去しとると思うておられるのですから、そのつもりでおられるところにその手紙を持っていったわけですから、もう、ご返事もなからなかったということでございます。皆さんどう考えられます。ね、どうしてその中に私書いてやりました。そういうような神ながらの中にです、例えんなら甘木関係やら、誰々をですね、例えばごまかしてからまで教会になろうとは思いません、ということです。ために、その為に私は教師になろうとは思わないて。こういう神ながらに開けてきたこの姿、この状態を見ていただいて、なるほど、と合点してくださって、例えそれが久留米関係であろうが、甘木関係であろうが、隣接教会であろうがです、例え評判だけでも、(  ?  )その祝福の中に、椛目のお広前建立、の、建立も同時ですけれども、開設ということにならなければならん、ということを、私は手紙に書いて、持って行ってもらった。

 これは私、あの、善導寺に、親先生に対するです、ね、抵抗とか、言うこと聞かんとかってそういう意味じゃない。それの方が私も助かる、必ず親先生も(  ?     )それの方が。いつまで親先生がびくびくしとらなさんならん。ここを突っ込まれたら、どうするじゃろうかと。ね、親先生自身もそれの方がお役になるなる、さることであり、私としても、こことしても、それを、おかげ頂くことが、できると私は、確信して、その為に、なら、3年が5年、長くなったってそんなことは問題じゃないて私は。せっかく、自分が親切で言うてやっておるのにと、まあ、一時は思いなさるかもしれんけれども、よくよく考えていただけば分かることだとこう、私は。言わば私の持ち物を、いっぺんがやーっと変えたわけです。もう親先生が仰ることならどんなことにでも、と私が思うとったその持ち物を、その、持ち物は、例えばこの先生(  ?   )、親先生あなたはもう、かえって不幸になりますよと。親先生の仰るとおりはいはい、って言いよりなさることはかえって、親先生を助けなさらんことになりますよ、いわゆる(おちもの?)がおかしかったんだけれどもです、ま、そこまでの切り替えが出来てなかったけれど、もう、私は、私の、こうすることがおかげになる、ということを、言うたり、成して行くことが本当だと思ったから・・・そんな・・。いわゆる、それでいてから私は有難い、とこう思うのですから、今までは、例えば、また同じようなこと言いよんなさる、また同じようなこと言いよんなさるけんで、一つも有難いものを感じんのんに、言わば、夏の服装に、言わば、冬の、ハンドバックを持っておるような感じだったでしょう。ね、今の私には、もうそれを、手紙持って行っていただいた、持って行って読んで頂いたという事がです、万事がどう思われてもです、私の気持はスッキリして、有難いものがあるということは、問題は、ね、私の心に沿うた、心に合うた、臨機応変にものを持った、ということになるでしょうが。御本部参拝ということはこれはもう、絶対のもの。有難いこと。間違いが無い。からと言うてです、ね、しゃっち御本部参拝しなければおかげが頂けんっち言うことじゃないのです。

 今度の、8月5日の、事なんかでもそうでした。ね、4日から立つと。それこそ目ん玉に指突っ込むように電話が掛かってきてから、今日までに連絡をせろと言います。ちょうどあの、委員、( ? )委員会があった日であった。それで、私その時に足が、非常に、元気なおかげいただいとりましたから、すぐ善導寺に参りましてから、そのこと私申しあげた。親先生今私は、体の状態こんなですから、私が参らなければ、皆もあの、お参りしませんし、また若い者が、若い者と言うても、ここにいるのは中西さんか東さんか参ってもらわん限りは、私はいよいよ体が悪かけん、誰も私を、んなら、繁雄さんなら繁雄さんでも、ただ手は引きなさったっちゃ、俺は行きなさらん。だから、どげんしようかち私は思いよりますと。この度は私御無礼させていただこうかと思いよりますと。それで、どんなもんでしょうか、って私申しあげたら、そりゃ椛目があんたお参りせんならば、久留米しかださらなきゃ、団体には参加できんって・・。24名、来とるです。ね、けれども私は今度のお参りはほんとのことじゃない様な気が致しましたから、そうやっって私は断ってきた。そしたら、んならもう、そげんしようか、もう、せからしか、あの、そん、どうかこうか言うちから、来たのが、(うき?)もって、いや、こうしたがよか、言うけんで、なら今度のはいっちょ、もう、自由で参ろ、っち言うごたるふうで、親先生も気持ようそげなん風に言うてくださった。ね、今まではもう、親先生が仰ることならば、と言うてから、さあ、一緒に行こう、お供して、そして何とはなしに、ピッタリ(すなーい?)その、ものであったということ。私は気持を、スッキリそうして申し上げることによって、親先生もスッキリしておられる。ならそげんたいの、ちょうど善導寺の大祭のあくる日ではあるし、3日が大祭ですから。4日から立たんならん。もうせからし、遠いっちゃけん、なら今度のはそげんしようち、まあ言うていただいたんですけれどですね、そらここに、御本部参拝と言うそのことは、そりゃ、ほんとに有難いことなんですけれどです、ね、その御本部参拝ですら、(      ?        )おかげの徳があるということ。ね、言わば自分の心にピッタリ、スッキリそして有難いものを感じるのでなかならければならないということ。これはもう、理由を言うなら沢山そういうことがありましょうと思います。ね、場合によってはなくなくでも、神様任せ、神様の、事であるとするならばです、神様任せで、言わばどんなにピッタリしなくても、なくなくでも行動しなければならん時があるけれども、そうでない場合のことです、今日はね。おかげを頂かしてもらわなければならんと。それを私どもがどうしてもです、ね、内容、信心の内容の修行としてです、自分で楽しようとは思わずに、楽はせんぞという気になるということ。さあ今日は、本気で修行せんならん、と言ったような、外には風が吹きよってもです、ね、自分方で、せきつめておかなければならない、と言ったような、ことになった時に、外ばっかり眺めて、あげん空は、涼しい風が吹きよるごたるとに、家だけがどうしてそげん暑かじゃろうか、といったようなです、思い方で、自分を苦しめることではなくて、ね、今日こそは、ほんとに汗じっくりかいてから、修行させてもらうぞ、という元気な心で、おかげを頂くときにです、さあ、今夜はおかげを頂いて、蚊も蝿もおらん、というような、楽な中におかげを頂くことが出来るでしょうが。その、楽な気持、いやほんとに神様に許されてからの、おかげということなんです。許されての楽であるということ。そこのところを、皆さんいただかにゃいけません。自分、皆さん達の心の中に、スッキリしないもの、ね、イライラするもの、腹の立つもの、様なものがあるときならです、まず、ハンドバックを持ち替えなきゃならん時である、心の持ち方を変えなきゃならん時であると、悟らせていただいて、ね、自分の心にピタッと合うようなもの、しかもピタッと合うということもです、神様に許されて、ピタッとしておる。あー今日も御用が(  ? )酒いっちょ飲もうか、と言ったようなものではなくてです、許されて、お酒が頂けれるといったようなです、おかげを頂かなければいけんですね。






             2004 6 25 入力者 大坪 加代太郎